話して、手放す。
最近、どうも萎えています。
たぶん、昔の自分の生活と違いすぎて、新しい生活にまだ慣れることができていないのだと思う。
そんな中、大学の先輩がとある会を開くことを知りました。
ずばり、「不安や心配を一気に吐き出そうの会」
(本当はもっと素敵な名称があるのですが、ここでは伏せます)
不安や心配を一気に吐き出そうの会
いつの間にかzoomのURLを手に入れた私、迎えた当日。初対面ばかりの中、こじんまりとした会は始まりました。
そこは学生だけでなく、様々な世代の方がいるところ。
「困っていることがある」という前提で集まっているからか、オンライン上でもすぐに和めるような不思議な空気感。
「就活がうまくいかない」
「ずっと家にいるから誰かと喋りたかった」
「授業を休みがちになってしまった」
抱えている悩みは、人それぞれ。
でも、根底にあるのは「誰かに聞いてほしい」という切実な気持ちなのでしょう。
だれも否定せず、受け止めてくれる。
いつの間にか、私も話しだしていました。
始まるまでは、話しても解決するわけではないし...とどこか消極的でした。
だけど、私に必要だったのは「解決」ではなく、「話す」ことでした。
「話す」は「手放す」なんだよ。
昔友人が言っていた、その言葉の意味がやっと分かった気がします。
「話す」だけでこんなにも気持ちが軽くなるのか。言葉が私の口からあふれ出る。
その日は、本当にただ、話しただけ。会が終わった後、私は不思議と高揚感でいっぱいでした。悩みや不安なんて、多くの人に知られるのが怖くて身近な人にしか話してきませんでした。でも、こんな形もアリかも。
コミュニケーションとぬくもり
このような時期だからこそ、私たちはコミュニケーションって何なのか、もう一度考えてみてもいいのかもしれません。
SNS上でのやり取りがいつにも増して多くなったように感じるこの頃。
「文字の交換」は、果たして「コミュニケーション」と言えるのでしょうか。
人間には人間の「ぬくもり」が必要だと思います。
ぬくもりとは、相手のありのままを否定せず、包み込むような優しいもの。
話して、手放された言葉たちを、そっと優しく代わりに放ってあげられるようなもの。
きっと本来のコミュニケーションは、もっと優しいことのためにもあっていいはずです。自分の弱さを安心して語ることのためにあってもいい。
人の目を見て、自分の口を使って話すことは、意識している以上に必要な行為かもしれません。
話すは、手放す。