優しい強さをこの世界に。
八月も終盤。いままでのことと、これからのこと。
二つ前のnoteで、私の話を書きました。文末にその後のことも書こうかなって書いたのに、なんだか気分が乗らず。いつの間にか一ヶ月くらい過ぎようとしています。
果たして私はその後どう生きていたのでしょう。
今になって振り返ると、靄がかかっているような、本当に私の身に起きたことなんだっけ?と不思議になるような、他人ごとの気も少しだけしてきます。
記憶を手繰り寄せて、また今日も自分のために書いています。
※気楽に読んでほしいから、紅茶とかコーヒーとか。気になってたコンビニの限定スイーツとか、食べながら読んでみてくださいね。
今日は心療内科に初めて行ったときのことと、今の社会に対して少し思うことを。いつもと違って、ちょっと堅苦しいかもしれません、。
初めて心療内科に行った、あの日。
「適応障害ですね」
そう言われたあの日まで、
私は心の病気に対してかなり偏った考えを残念ながら持っていました。
「そっか。私って弱い人間だったんだ...」
実際に病院に行くことなったとき、自分のことが無性に弱く、ダメな人間に見えました。
だって「そういう」病院に行く人間なのだから。
社会の波にうまく乗れなかった人間なのだから。
今となっては本当に恥ずべきことですが、そう信じて疑わなかったのです。
しかし初めて病院の待合室に足を踏み入れたとき、
私はいかに自分の考えが偏り、差別的であったのかを、知ることになります。
とても正直な話をしてしまうと、肩透かしにあったような気分でした。
誤解を恐れずに言うのならば、「え?なんで元気そうな人たちがここにいるの?」
そう思ってしまったのです。
結局、私は診断を受けたあと、
「あ~色々一人で抱え込んじゃったのね~」
という先生の少しのんきな一言から、カウンセリングに通うことになりました。
こちらも初めての経験。
最初はかなり緊張して少し元気アピールをしてしまったり。
けれど時とともにカウンセラーさんとも信頼関係が築けて、
ぽつりぽつりと、本当の胸の内を話せるようになってきたり。
口に出すことで初めて、私ってこんな風に感じていたんだ、とわかることも増えてきました。ちなみに、今も継続してカウンセリングには通っています。
やっぱりまだ、自分の声を聞く訓練が必要みたいです。
社会のふわふわ
もやもや、としようかと思ったけれど、言いたいことはそうではない気がして、なぜだか「ふわふわ」と書きました。
私が病院に行くあの日まで思っていた気持ちと似たものが、ふわふわとこの社会に存在している気がします。弱いことは悪いこと、助けを求めるのはいけないこと、というような。
今でも多くの人たちが「心の病気」に対して、あまり寛容でない意見を持っているのではないでしょうか。
外側に見えてこないからこそ、理解されにくく深刻になりがちなのが心の病気の特徴です。しかし咳をしたり、熱が出たりすることと同じように、本当は心だって風邪を引く。だから、咳止めや、解熱剤をもらいに行くのと同じくらい、苦しかったら心の病院にだって行っていい。私はそう思います。
偏見ってなかなか無くせません。
きっと今書いている私の中にも、偏見は存在しています。
でも、それを偏っていると気づかず、ただ振りかざしてしまうのか、それとも自分の偏りを認識した上で、「違う」人のことをまずは知ろうとするのか。
私は後者でありたいです。
気を付けていたって、だれかを傷つけてしまうかもしれないけれど、それでも知ることはやめないでいたい。
「世界を優しい強さで満たしたい」
道端に咲いている小さな花の音にも耳を傾け、
そっと守ってあげられるようなそんな存在に、
私はなりたいのかな、そんなことを最近は思います。
私は今までそのような存在に助けられてここまでやって来られたと思うから。
心の病気なんてかからないに越したことはないけれど、
それでも私はこの時期を通して人の持つ力強さを知りました。
だから、その恩返しの意味も込めてここに記しています。