記録|大川小学校を訪れて
震災が起こって9回目の3月11日が過ぎた。
私は「3.11を知らない」日本人だ。9年前日本におらず、あの地震を経験していない。親の仕事の都合上という、どうしようもない理由だったけれど、それでもどこかで後ろめたさを感じていた。
9年「も」経ったのか。9年「しか」経っていないのか。私は知りに行くことにした。
大川小学校
大川小学校は北上川の近くに建つ、なかなか洒落た外観の小学校だった。半円にカーブした校舎、中庭、体育館へ続く渡り廊下、それに野外ステージ。あと、シイタケ栽培もできる裏山まで!
素敵という声が思わず漏れる。108人の子どもたちも自慢の校舎だったそうだ。
9年前のあの日、大川小学校の景色は一変する。そう、津波がやってきたのだ。その後、何が起きたのか。大川伝承の会の方にガイドをしていただいた。
『ここには津波は来ない』
子どもたちは先生の指示で校庭に集まっていた。
84名。
それが犠牲になった子どもと先生たち。津波は、川から陸からやってきて、校庭でミキサーのように渦を巻いた。
◇
まだ見つかっていない4人の子どもたちがいる。
写真の黄色いブルドーザーは、見つからないわが子を探すお父さんやお母さんたち。この場所が震災遺構として整備されることが決まり、その後は探すことができなくなる。
時間は残り少ない。
このブルドーザーを写真に写していいものか、とても悩んだ。軽々しく写していいことだと思わなかったから。それでもこの写真を使ったのは、ここで起きたことをただの「過去」のことにしてはいけないと思ったからだ。
「忘れてはいけない」
大川小学校に行って私が感じたこと。
「正しい知識」を持つということ
先生の中には、地震など自然災害が起きたときの対応に詳しい方がいたそうだ。その先生のクラスだけは、直接裏山へ避難していた。しかし、最終的には中庭に呼び戻されてしまった。
当時のハザードマップでは津波が来ないことになっていた、大川小学校。
避難場所も明示されていなかった。
この「情報」を頼りに当時の先生たちは判断したのだろうか。前述の先生のような、「津波が来るから裏山へ逃げよう」といった声は、どうして届かなかったのだろう。ガイドの方が指摘していたのは、「その時、どのような意思決定がなされたのか」ということ。
時間も情報も手段もあったのに、どうして「逃げろ」と強く言えなかったのか。組織として機能しなかったのはなぜか、議論を続けていくと言っていたガイドの方。大川小学校のことに限らず、これはどんな組織に属していても考えていく必要のあることだと思う。
津波が到達する1分前、先生と子どもたちは川岸の三角地帯へ避難を始めた。裏山ではなく、北上川の近くへ。上級生を先頭に移動し始めたけれど、その途中で津波は子どもたちを飲みこんだ。
「正確な知識・情報を持つこと」
「子どもたち、とくに小学生は、大人のいうことを絶対に聞く。だから、どんな理由があろうと、大人が守ってあげなければいけないんです」
ガイドの方がしきり言っていた言葉。
9年前、私は小学生だった。
同世代の子どもたちがこの場にいたのだ。津波が来るあの時まで、彼ら彼女らはたしかに生きていた。現地に行くことで、実際に感じたその息吹。
今、私は「大人」と呼ばれる分類に入った。
しかしそれは、子どもを守れるような「大人」だろうか。「正確な」知識や情報を持った人間だろうか。振り返っても、今は自信を持つことができない。その場における、「正しさ」とは何なのか。
とりあえず、行ってみるということ
それが今回、大川小学校に行って思ったこと。
「百聞は一見に如かず」で、実際に目で見、耳で聞いてみるべきだ。直接行ったことも、聞いたこともないことを、どうしてこうだと決めつけることができるだろうか。主語は「私」、「私」が「どう感じるのか」。それが「正確な知識」を作る一つの材料になると今は思う。自分が肌で感じたことは、だれにも奪えないことだから。
日々のニュースを確認すること、大学に通うこと、SNSをチェックすること、友達と話すこと、働くこと。私の周りにある色々な「当たり前」は、日々目まぐるしくアップデートされていく。けれど、その一つ一つは奇跡のようなバランスで成り立っている。「当たり前」はかけがえのないものだ。
いつか私が「正しさ」を持った大人になれるように、日々を噛みしめる。あの場所へ胸を張って立つことができるように。